10月、日本に来る予定です―――

ケルサン・ペモさん(35歳)
ケルサン・ペモさん

自分の体験などほんとうにささいなことに過ぎません。もっとひどい仕打ちを受けた人のほうが多いのです――それでも、欧米では、実際に自分の目で見た体験こそ話す価値があり、人に伝わるのだ、と聞きました。私の話でよければ、どうぞ聞いてください――


 2000年8月24日、10月の来日(※)に向けて日本のビザ申請手続きを進めている、ケルサン・ペモさんとお会いして、お話をうかがうことができました。
 ケルサンさんは、1990年に亡命後、ダラムサラ市内にあるシュンセップ尼僧院で修行を続けておられます(この尼僧院の修行はかなり厳しいそうです)。この日は、午後の勤行をお休みして、特別に私たちのために、ルンタ・ハウスへ足を運んでくださいました。
 (※ アムネスティ・インターナショナル主催の「拷問廃絶キャンペーン」全国証言ツアーの証言者として来日準備が進められています。)

ケルサン・ペモさん
ケルサン・ペモ(Kelsang Pelmo)さん

 1965年、ロカ(現在のチベット自治区山南市)生まれ。貧しい農家の、7人兄弟姉妹の長女だった。1985年、20歳のとき、実家近くの尼僧院で出家。88年5月、ラサのパルコルで「チベットに自由を」と訴えるデモに参加、逮捕される。約2カ月間収監された後に釈放され、尼僧院に戻るが、拷問によりひどく衰弱していてその後1年間はほとんど寝たきりの生活を送る。89年、中国当局によって僧籍を剥奪され寺院から追放されることが決まり、修行を続けるために亡命を決意。友人の尼僧とともに90年9月、ダラムサラへ亡命。現在、ダラムサラ市内に再建されたシュンセップ寺院で修行を続けている。


 スタディ・ツアーの一環として開かれたケルサンさんの証言会には、ルンタ・プロジェクトのツアーで訪れたメンバー4人(うらるんた、K嬢、Nさん、Oさん)のほか、取材旅行で訪れていた通信社記者Mさんと、その時たまたま日本食レストラン「ルンタ」に居合わせた日本人旅行者4人の計10人が参加してくださいました。(下の写真はその時の様子です。)
 チベット語の通訳は、ルンタ・プロジェクト現地スタッフの2人が務めてくださいました。 (ルンタ・プロジェクト現地スタッフのお2人には、日本国内での証言ツアーでも、一部会場で通訳を務めていただく予定です。)
 ご協力いただいた皆さま、ありがとうございました。

ペモさんの話を聞くスタディ・ツアーのスタッフと飛びいり参加者


尼僧 ケルサン・ペモの話

二十歳で仏の道へ
政治の季節
逮捕、拷問
寺院からの追放
母との別れ
インドへ

二十歳で仏の道へ

ケルサン・ペモさん
 時に手振りも交えながら体験を語るケルサン・ペモさん。悲惨な内容なのに、言葉遣いは終始淡々としていて、そのことに却って傷の深さを思わされました。

 1965年、ラサ近郊のロカにて、農家を営む両親のもとで、7兄弟姉妹の長女として生まれました。貧しかったので、学校に通ったことはなく、20歳まで、ただ家の農作業の手伝いをしながら育ちました。村には学校はありましたが、下には弟3人と妹3人がいたので、経済的余裕がなかったのです。
 村には、1959年の中国共産党軍の侵攻で破壊された寺がありました。時が流れ、文化大革命が終わり、1980年ごろから寺院の再建が始まりました。両親は、貧しいけれど信仰心の厚い人だったので、私に寺院の再建の仕事を手伝わせました。
 私自身、生き残った僧侶や村の人たちと、破壊された寺院を建て直す仕事をしながら、寺院での生活をかいまみて、このまま家に戻って結婚して一生を終えるのではなく、仏教の教えを学び、徳を積んで今生を終えることができたらどんなにいいだろう、と考えるようになりました。

 そのうちに、私はいつのまにか頭を剃り、えんじ色の僧衣を着て、寺院再建の仕事に打ち込んでいました。20歳の時でした。
 6カ月ほど経ったある日、そのままの格好で家に帰ったところ、両親はとてもびっくりして、特に父親はがっかりしていたようです。信仰心の厚い両親でしたが、父親は、私が長女なので、結婚して家を継いでほしいと考えていたようだったのです。でも、母はそっと喜んでくれました。

 出家したのは1985年でしたが、その後2年間は、破壊されつくした寺院を再建する仕事がほとんどで、毎日工事現場で働いていましたので、念願の仏典を学ぶことはほとんどできませんでした。夜、バターランプの明かりでちょっとだけお経を読むのがやっと、という状況だったのです。きちんと修行する環境には恵まれませんでしたが、私たちは、仏教を学べる喜びでいっぱいでした。

政治の季節

 1987年9月ごろから、デプン僧院やセラ僧院の僧侶たちによる、チベット独立を求めるデモが行われるようになりました。9月27日のデプン寺のデモのことは私たちのところにも伝わってきました。
 でも、シュンセップ尼僧院はラサの市街地からは離れたところにあったので、すぐに影響を受けたわけではありません。それでも、自然と、「私たちもなにかするべきではないか」「中国政府に抗議の声を上げるべきではないか」という会話をするようになりました。

 そして、1988年5月17日、同じシュンセップ尼僧院の11人の尼僧と、(近くの寺院の)2人の僧侶とともに、トラックに乗ってラサのバルコル(ジョカン寺を巡る門前市)に行き、独立要求のデモを行ったのです。ほんとうは何人の僧侶が参加したのかは分かりません。自然に集まった僧侶たちが、トラックに頼み、ラサにつれて行ってもらったのです。13人は最後に捕まった僧と尼僧の数です。無事に逃げられた人もいたかも知れません。

 私は23歳でした。私たちは「チベットはもともと独立した国だ」「ダライ・ラマ法王にチベットに帰って来てほしい」「中国人は中国へ帰るべきだ」などと叫びました。3周したところで逮捕されました。その場で袋叩きにされ、トラックに投げ込まれて、連行されました。でも、私たちの士気は最後まで衰えることなく、私は、トラックの荷台に投げ込まれても、ずっと「チベットに自由を」と叫び続けていました。連行される時、1人の僧侶が、頭からひどく血を流し、頭の先から足元まで、真っ赤な血が流れ落ちていた光景が目に焼き付いています。

逮捕、拷問

 それから連行された場所で、犯罪者として写真を撮られ、尋問室で、3人の警官に激しい拷問を受けました。私は中国語が話せないので、2人は中国人で、残りの1人は通訳のチベット人警官でした。でも、そのチベット人警官もひどく殴るのでした。
 「どうしてデモに行ったのか」
 「デモでは何を叫んだのか」
 「おまえたちの後ろにはいったい誰がいるんだ」
そのようなことを聞かれたと思います。私は正直に答えるだけでした。
 自分たちで考えて、自分たちで決めてデモに行った。デモで叫んだのは、次のようなことだ――中国は中国へ帰れ! チベットは独立国だ! ダライ・ラマ法王に早く自分たちの土地へ帰って来てもらいたい。
 そのたびにまた殴られました。

ケルサン・ペモさん
 わずかに表情をゆがめながら、殴られた時のことを話すケルサンさん。
 ううむ、暗くてコワイ写真ばかりですが、実は証言をしていただいた日、ダラムサラ市内は停電でして、さらに雨も降ってきて、とても室内が暗かったのでこんな写真ばっかりに……(すいません)。

 顔が腫れて、殴るところがなくなり、警官たちは電気棒を持ち出して来ました。それから、定規も持ってきました。このくらい(とケルサンさんは両手を広げてみせました)の、厚いプラスチックの定規です。それで代わる代わるに殴り、殴り疲れると彼らは休憩し、しばらくするとまた殴り始めるのでした。
 木刀でも殴られました。木刀といっても、木の皮や枝がまだ残っているような、木から切り落としてきた木切れのような木刀です。発電機に使うモーターのベルトを外してきて、それでも殴られました。ベルトのバックルのほうでも殴られました。ありとあらゆる物で殴られました。
 「一体、誰がリーダーなのか」「誰がデモに行くように指図したのか」と、同じことを執拗に尋問されました。「皆で話し合って決めたことで、リーダーはいない。皆、自分の意志でデモに参加した」と、本当のことを言っているのに、決して納得しようとはしませんでした。

 移動のために尋問室から通路に連れ出された時、警官たちは犬を差し向けました。犬は私に飛びかかり、それを手で必死によけると、今度は足首に噛み付いてきました。すごい力で、履いていた革靴が犬に噛みちぎられてしまったほどです。
 警官は、犬に襲われている私に、「このまま犬のエサにしてやってもいいんだぞ」と言いました。通路から別の部屋につれ込まれ、扉の前で手を離されたとき、私はあまりの痛みに倒れ込んでうずくまり、そのまま起きあがることができませんでした。デモに参加して逮捕されたのが午前11時くらいだったのですが、だいたい午後6時くらいまで、そのままの姿勢で、水も与えられず手当てもされず、ただ倒れていたようです。
 足首には、そのとき噛まれた傷が今も残っています。

 それから、その部屋には、2人の女性警官が入ってきました。女性警官は私の服を脱がせ、素っ裸にしたのです。部屋の窓は、わざと開いていて、チベット人の刑事囚――盗みやケンカで逮捕された、一般の犯罪人の収容者――がのぞけるようになっていました。私は裸にされたことが恥ずかしくてたまらなかったのですが、木切れを持った警官に追いかけられ、身体のどこといわずめちゃくちゃに殴りつけられ、あまりの痛さに床を転げまわり、最後には恥ずかしいと感じる余裕さえなくなってしまいました。

 それから電気棒を持った警官がやってきて、それで殴りつけたり、女性器や肛門を突き刺されたりしました。窓からはずっと刑法犯の囚人たちが見ていました。
 そして、また最初の3人の警官が戻ってきて、尋問が始まりました。チベット人の通訳に「うそをつくことはできない、最初に答えたことしか話せない」と言うと、木切れでまた殴られました。そのうち、殴っていた木の棒が折れてしまったため、縛られた身体をねじり上げられたりもしました。気を失うたびに水が掛けられました。
 警官たちは、休憩するたびに、そのバケツから水を汲んで飲んでいました。私は、逮捕されてから1滴の水も与えられていなかったので、とても苦しく、その飲み干す音にひどく精神的な苦痛を受けました。後ろ手に縛られたまま、床にあごを押しつけられ、腹這いになって寄り掛かる姿勢でひどく殴られた後、警官3人は煙草を吸い始め、「煙草を吸っている間、考える時間を与えるから考えろ」と言われ、あごと足だけを床につけるひどく苦しい姿勢で放置されました。

足の傷を示すケルサンさん
 「犬に噛まれたり殴られた時の傷はこのあたりにも残っていて、坂道を上がったり下ったりするのがとてもつらく、休みながらゆっくりゆっくりと歩いています」
 靴を脱いでいただいて、傷口をそっと見せていただきました。小さな裂け目のような傷が、あちこちに無数に残っていました。


 縄で縛られ、5人がかりで殴られたので、その後の私の記憶は途切れ途切れです。「もう私は死んだのかな」「ここはどこだろう」とぼんやり考えていたように思います。
 深夜の1時くらいだったでしょうか、ようやく拷問が終わり、10人くらい囚人が入れるほどの大きな部屋に、引きずられるようにして連れていかれました。部屋に押し込まれたとたんに一歩も動けず、戸口の前に倒れて気を失ってしまいました。3日間はそうして倒れていたかと思います。

 「そんなにダライに逢いたかったらダライを呼んで来い」
 殴られながらそんなことも言われました。法王猊下を悪しざまに罵られることは、身体の痛みよりもつらいものがありました。

 倒れていた間、次の日に、ふつうの囚人が食事を運んできて、戸口の隙間から投げ込んでいったのは分かりました。でも、私には起きあがる力はなく、そのまま倒れていました。その次の日には、医者らしい漢族の女性が入ってきました。身体のあちこちを調べているのが分かりましたが、何を治療してくれるでもなく、それどころか、同じ女性なのに、最後に私の身体を殴りつけて部屋を出て行きました。

 私は体力もなくなり、昼も夜もわからないありさまでした。拷問はそれから毎日1カ月半くらい続いたのではないかと思います。椅子やほうきなど、部屋の中のありとあらゆるもので殴られました。
 最後の15日間は、尋問や拷問はなくなり、ただ倒れているだけでした。
 そのなかで、2カ月目のある日、刑務所の2階にある警察幹部の部屋に呼ばれ、見たこともないような長い太い棍棒で殴られたことがありました。その時は、殴られたショックと痛みで息ができなくなり、ああ、このままだと死んでしまうだろう、一緒にデモをして逮捕された尼僧たちは生きているだろうか、私はもう生きて釈放されて生き長らえるのは無理だろう、と思いました。

 ――ほんとうに、今ここにこうして生きていられるとは、あの当時は想像もできなかったのです。

寺院からの追放

 私がどうして釈放されることになったかというと、心配したシュンセップ僧院の僧院長が、私に面会を要求して、わざわざ訪ねて来てくれたのでした。僧院長は、その当時で70歳か80歳近かったのではないかと思います。
 でも、私はほとんど自力で動くことが出来ない状態で、顔は腫れあがり、目も口もわからなくなっていて、面会に来てくれた僧院長は、わたしのことを見ても、誰なのかまったく判らないようでした。

 一緒にデモをして逮捕された友人の尼僧たちのなかには、この時の拷問がもとで、右腕が麻痺してまったく使えなくなった人がいます。また、縛られて天井から吊り下げられ、下から火であぶられて大火傷を負った尼僧がいます。刑務所内で用を足すための肥桶の前にひざまづかされ、汚物の入った桶の中に頭を突っ込まれるという仕打ちを受けた尼僧もいます。ひどいことです。私の体験はほんとうにささいなことで、もっともっとひどい扱いを受けた人たちがたくさんいるのです。

 僧院長たちのおかげで、釈放されました。犯罪者で、身体はほとんど動かすことができない状態でしたので、寺院に戻ることも自宅に戻ることもできず、僧院長の自宅に引きとっていただきました。
 2カ月ぶりに見るラサの街は、どこか知らない土地のようで、私は意識朦朧としていました。表だって病院で治療を受けることもできませんでした。でも一度だけ、市民病院にレントゲンを撮ってもらいに行きました。内臓が非常に痛んでいる、と言われました。後はチベット人の民間の医師に診てもらい、2カ月ほどは寝たきりの状態でした。

 そのうち、寺に呼び出されて尋問を受けるようになりました。同じように呼び出される人たちは10人くらいもいたかと思います。「お前は刑期を終えたわけではないんだ」と言われ、いつでも刑務所に呼び戻せるのだ、と脅されました。
 ロサ(旧正月)を迎え、1989年になると、シュンセップ尼寺からデモに参加する尼僧はますます多くなりました。中国政府は、デモに参加したことがわかった僧や尼僧を、寺院から追放するようになりました。シュンセップ寺院から追放される人も多くなっていました。
 そのころになって、僧侶だけでなく、ロカ地方の村の人たちも、次第に声を上げるようになりました。僧侶とともにデモに参加したり、僧侶の書いたビラを壁に貼ったりし始めました。実家の、私の母も抵抗活動に参加して逮捕され、しばらくの間、どこの刑務所にいるのかさえもわからない状態でした。その時、7人の兄弟の一番下の弟はまだ4歳だったのです。
 11カ月後、「(母が)死にそうだ」という噂が伝わってきて、母はほとんど植物状態のようになって刑務所から帰されました。

ケルサン・ペモさん
 ケルサンさんに「写真を撮らせてほしい」と頼むと、緊張した表情で直立不動になってしまいました。ちょっと困ったようなシャイな笑顔です。ケルサンさんに限らず、チベットの人は(尼僧として生きることを選ぶような人は、と限定すべきかしら?)はにかみやで控えめな人が多いような気がします。


母との別れ

 私は、釈放された頃から亡命することを考えていました。このままチベットにいても、寺院から追放されてしまっては修行を続けることもできません。また、生きている間に一度ダライ・ラマ法王にお目に掛かりたいとも思っていました。私自身の身体もほんとうに弱っていたので、ヒマラヤを生きて越えられるかどうかわからない状態でしたが、このままチベットで生きていくよりは、と思いました。

 それで、母が釈放されたことを知り、病院に入院している母のもとを訪ね、「亡命するつもりだ」とこっそりと打ち明けたのです。母は植物状態を脱し、やっと意識が戻ってきたところでしたが、私の顔を見て、「自分はもうすぐ死ぬから、私の代わりにダライ・ラマ法王の元へ行き、徳を積んできてほしい」と言いました。
 こんな状態の母を残して行くのは辛かったのですが、私は亡命を決意しました。

 あれから10年、一度も母に会ってもいませんし、声も聞いていません。母はその後、奇跡的に回復し、回復すると再び刑務所に入れられたと聞きました。さらに、亡命した人を通じての風のたよりで、現在は釈放され、自宅で寝たきりの生活を送っていると聞いています。すぐ下の妹が世話をしているはずです。

インドへ

 インドで修行を続けたい、もう亡命するしか道は残されていない、と思いました。拷問で受けた傷は完治していませんでしたが、友達の尼僧助けを借り、必死の思いでヒマラヤを越えました。
 2カ月以上かかって、1990年9月になんとかダラムサラにたどり着き、ここのシュンセップ尼寺で修行を続けています。

 今でも、腎臓が悪く、ときどき起き上がることができないほど痛いことがあります。犬に噛まれたりした左足の足首にも痛みがあり、普通に歩くことができません。特に、坂道の多いダラムサラの町を歩くのは大変です。
 それでも、法王のもとで、こうして仏教の修行が続けられる今、自分はこのうえなく幸せだと思っています。


 ほんとうにつらい体験をしたはずなのに、ケルサン・ペモさんは、最後まで落ち着いて、淡々と語ってくださいました。それは、日々の生活の中で身体や心の傷と直面しながら10年が経った、という時の流れもあるでしょうし、シュンセップ僧院で修行を続け、仏典と向き合い、仏に祈りをささげ修行してきた日常の積み重ねのなかで、ゆっくりと癒されてきたということかもしれません。こんなとき、宗教(チベット仏教)のちからってすごいなあ、と思います。
 同世代の女性として、つらい経験、悲惨な体験をくぐり抜け生き延びてきた強さに心を打たれました。

 ところで、ケルサン・ペモさんは今年5月、アメリカの人権団体に招かれ、サンフランシスコからロサンゼルスまでフリーチベットを訴えながら行進する「チベット ピースマーチ」に参加しています。9-10-3の代表、イシ・トクデンさんとも一緒でした。
 「アメリカの印象は?」と尋ねたところ、返ってきた答えは「左足首のほうが激しく痛くなって、もう一歩も動けなくなりました。いまも坂道を歩くのが痛いです」。
 ……亡命10年にして初めての外国、それも亡命チベタンみんなが(なぜか)あこがれるアメリカでしたが、お気の毒にも、観光したり楽しんだりする余裕は全然なかったみたいです。日本はけっして障害者に優しい国とはいえないけれど、駅にはエスカレーターもエレベーターもありますし、そんなにひどく歩かされることはないと思いますから、炎天下を歩き続けたアメリカよりも「楽だった、楽しかった」と言ってもらえますように(笑)。

 最後にケルサンさんは、
 「私は学校に行ったことがなくて頭が悪いし、このように人前にでてお話することなどとても不慣れなので、あまりうまく話せなかったと思います。それなのに、こうして私などの話を聞いてくださり、ほんとうにありがとうございました。チベットに関心を持ってくださってほんとうにありがとうございます」
と両手をあわせるのでした。
 「10年前こちらに来て、ダライ・ラマ法王猊下に謁見する機会をいただいたときに、私は、自分や自分の友人たちの体験をすべて猊下にお話ししました。猊下は、最後に、あなたは非常につらい体験をした。その体験を、なるべく多くの人に知ってもらうことが大切だ、とおっしゃられたのです。思い出してつらい気持ちになるたびに、猊下の言葉を胸に思いながら、自分の体験を話しているのです」と言っていました。
 ――ありがとうございました。



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