私の声を聞いてください―――

ガンデン・タシさん(2000年10月14日、高田馬場のホテルで) ガンデン・タシさん
(32歳)
――まだ刑務所にいる仲間のチベット人たちのために私ができることは、こうして皆さんの前で自分の体験を話し、1人でも多くの方にチベットの現状を知ってもらうことだと考えています――

■notes■

 2000年10月14日、来日したガンデン・タシさんと成田空港で会うことができました。タシさんは、日本でのスピーチのために自分の体験を原稿にまとめ、英語に訳してきてくれていました。今回の証言ツアーは、主催するアムネスティ・インターナショナルのご尽力で、全会場でチベット語での講演が可能になったのですが、せっかく作っていただいた文章なので、タシさんご本人の了承を得て、このページで紹介させていただくことにしました。

■Profile■

ガンデン・タシ(アムネスティ提供)■ガンデン・タシ(Ganden Tashi)

 元僧侶。1988年、平和的なデモに参加して逮捕され、長期の刑を言い渡される。獄中でひどい拷問を受け、下半身が麻痺し、頭を強く殴られたのが原因で重症になり入院。1994年、アムネスティ・インターナショナルによる「緊急行動(UA/アージェントアクション:urgent action)」の対象となる。のち、仮釈放され、インドへ亡命。
 現在はインドを中心に活動するNGO「チベット人権センター」に勤務。元「良心の囚人」を助けるためにダラムサラで設立された『9-10-3(グチュスム)の会』のメンバーとしても活動。


元僧侶 ガンデン・タシの話/CONTENTS

Family Life 生い立ち
At Ganden 僧院へ
March 5 Demonstration  1988年3月 5日、デモ
My arrest and Gutsa  逮捕、そしてグツァ刑務所
Seitru  ストゥ刑務所
Sentence and transfer to Drapchi  懲役刑、移送
Organisation and Extension  抵抗組織と刑の延長
Dark room solitary confinement  暗い独房での拘禁
In Hospital  入院
After release  釈放後
To India  「難民」として

Family Life 生い立ち

ガンデン・タシ
▲来日当日、東京・高田馬場のホテルで。これから1カ月の証言ツアーを前に、ちょっと不安そうな表情

  私は、ガンデン・タシ(Ganden Tashi:タシは「吉祥」。“ガンデン僧院のタシ”)と呼ばれています(※1)。 チベット人は年齢をあまり気にしないので正確な年は分かりませんが、1967年ごろ、チベットの首都ラサの郊外にある小さな村、メトクンガ(Medro Gongkar)で生まれました。私の家族は牧畜で生計を建てており、ヤクや羊が一日中歩き回る、自然の豊かな美しい谷で生活していました。

 私には3人の姉と2人の弟がいて、私が長男でした。私たち兄弟姉妹は、全員、両親を手伝って家畜の世話をしていました。
 7歳から、近くの小学校に通い始めました。学校では、中国語、チベット語、算数を勉強しました。学校には教科書も文房具も不足していて、生徒たちはインクの代わりにヤクの血や煤(スス)を、紙の代わりに板切れを使い、「There was no papers and pens(紙もペンもありません)」という例文を書いたものです。

 天気のいい冬の日には、学校を途中で抜け出し、サボって遊びに行ったりもしました。そんな時にはよく、文化大革命の際に紅衛兵によって破壊された寺院の瓦礫や仏像が中庭に積み上げられている所に行き、その青銅の破片でそりを作り、丘の斜面で競争して遊んだりもしました。

At Ganden 僧院へ

  16歳になったとき、両親から、ラサ郊外のガンデン僧院に行き僧侶になってはどうかと勧められました。父親はかつて、ガンデン僧院の僧侶でした。しかし中国が来て、強制的に還俗させられました。でも一生とても信仰心の厚い人でした。両親は、僧侶になることが本人や家族、社会にとってどんなにすばらしいことかをとくとくと説いたのです。
 チベットではかつては、若いうちに出家して僧侶になるのはごく普通のことでした。ですから、私は僧侶となる大変さについて考えるよりも、ガンデン僧院――チベット仏教の偉大な指導者であるツォンカパ大師によって1409年に創建された美しい僧院――で修行できると聞いて、嬉しく思いました。

 幼い頃、一度だけ、父親に連れられて、ガンデン僧院を訪ねたことがあります。それはすばらしい旅行でした。メトクンガから丸1日がかりで峠を越え、歩いて巡礼したのです。1日中、廃虚の中に小さな僧房が立つ、異様でありながら美しい丘の上を歩きました。その時、私は生まれて始めて僧侶を見たのでした。

 ガンデン僧院は、中国軍によって完全に破壊し尽くされていました。私が出家した1983年当時、僧院には、2〜3の伽藍を除いてほとんどなにも残っていませんでした。ほとんどの僧侶たちは、屋外のテントの中で生活していました。1980年代の初めに始まった僧院の再建は、僧侶の力で現在も続いています。

 ガンデン僧院で、私は熱心に学び、楽しい日々を送りました。仏教の教義だけでなく、チベットの歴史を知り、そして初めて、チベットの真の現実について知ったのです。
 出家するまで、かつてのチベットのことはまったく知りませんでした。中国の学校に行っていたため、「チベットはかつてひとつの国であり、占領されたのだ」ということさえ知らなかったのです。
 僧院の先生たちは仏教以外にも、たくさんのことを教えてくれました。中国共産党に占領された1959年以来、チベットに何が起こったか、文化大革命でなにが行われたか、先生の体験をひとつひとつ聞くことができました。僧院の指導者の多くは、ただ僧侶であったという理由で、中国の監獄や強制労働キャンプに10年以上入れられ、非常な苦しみを体験した、数少ない生き残りの人ばかりでした。

 こうした話を聞いて、私はチベット人としてのアイデンティティ、失われたチベットの国家というものについていろいろと考えるようになりました。そして、チベットのために何かすべきではないか、と強く思うようになったのです。

March 5 Demonstration  1988年3月 5日、デモ

ガンデン・タシ
▲カトマンズのチベット民主人権センター事務所で仕事中のタシさん
(2000年10月、TakedaTomoakiさん撮影)

 1988年3月、モンラム大祭(チベットの正月の最も大きな行事で、モンラムとは「祈り」を意味します)の期間中に、ガンデン寺院の何人かの僧侶が、チベットの独立を外の世界に訴えようと、平和的デモを計画しました。1987年末に逮捕された僧侶、ユーロ・ダワ・ツェリン尊師(Yulo Dawa Tsering)の釈放を求めるのが最大の目的でした。

 私もこの計画に加わりました。他の5人の僧侶とともに、デモの計画を練ったのです。
 私たち僧侶が多人数でラサに行くことのできるチャンスは、モンラム大祭しかありませんでした。というのも、1987年9月にデプン僧院の僧侶たちがデモを行い、同10月にセラ
僧院の僧侶たちがデモを行った後、ガンデン僧院内には中国政府の工作員が常駐しており、僧侶たちの行動は監視され、ラサ市内に行くことも禁じられていたからです。

 もしデモをすれば、自分たちの身にどんなことが降りかかるのか、まったく想像もつきませんでした。それでも、誰もそれを気にしていませんでした。私たちは、自由を求める
訴えを誰かの耳に届けること、それだけを必要としていたのです。

 ――そして、この日を境に、私の人生は一変しました。

 1988年3月5日、私たちガンデン僧院の僧侶に先導されたデモが、パルコル(ラサ中心部ジョカン寺を囲む右遶道〔チベット仏教の右回りの礼拝をする参道〕)で始まりました。すぐに、セラ僧院、デプン僧院また他の僧院の僧侶たち、その他多数の市民が加わりました。デモは、ダライ・ラマ法王の教えに従った平和的なもので、武器になりそうなものひとつ持ってはいませんでした。
 「チベットに自由を!」「ダライラマ法王よ永遠なれ!」「ユロ・ダワ・ツェリンの釈放を!」と叫ぶ声が響いたのです。まだデモは始まったばかりでしたが、人民解放軍はすぐさま、群集に向かって銃を撃ち始め、まもなく、市民が1人射殺されました。
 集まった人たちは激怒し、そして、事態は悪化しました。

 何人かの僧侶が亡くなったその男性の遺体を担ぎ上げ、パルコルを回りました。デモ行進は途切れることなく、1日中続きました。途中で私は、傷ついた人を介抱したり、負傷者を安全な場所まで運ぶ役割に回りました。昼ごろ、私は銃弾により死亡したり、負傷した人たちの血で染まった僧衣を脱ぎ、普通の服に着替えて、再びデモ行進に戻りました。

 夕方6時半ごろ、私は逮捕されました。僧侶を辞して還俗したのはもっと後のことですが、この時以来、私は僧衣を二度と着ることはありませんでした。

My arrest and Gutsa  逮捕、そしてグツァ拘置所

 逮捕された時、自分の身に何が起きたのか、記憶ははっきりしていません。警官隊が催涙ガス弾を私たちに向け撃ち、それから棍棒やライフルの銃尻などでめった打ちにされました。7〜8人がかりで殴られ、それから裸にされました。何人かは電気棒を持ってお
り、冷水を浴びせられたうえで、ショックを与えられました。殴打は1時間くらい続いたかと思います。
 最後に頭に強烈な一撃を加えられ、私は意識を失ってしまいました。のちに意識が戻ったとき、手錠を掛けられ、グツァ拘置所にいることが分かりました。部屋には20人ほどのチベット人がいました。いたるところから呻き声が上がっていました。

 それからほとんど毎日、あらゆる拷問を受けました。中国人刑務官の1人は、足で私の肩を踏みつけ、腕を非常に強く後方へ引っ張りました。ついには肩の関節が外れてしまいました。その時、ああ、腕が折れた、と思ったのですが、同じ部屋の人が「肩が外れているだけだ」と言いました。翌朝、私は拘置所内の医務室に連れて行かれましたが、医者は肩を(反対側に)足で踏みつけただけでした。
 それから数年間の獄中生活の間、何度も拷問の際に肩を脱臼させられて苦しみました。いまもまだ肩には後遺症が残っていますが、インドに亡命後、切開手術を受け、やっとだいぶ良くなりました。

 最も辛い拷問は、裸にさせられ、電気棒で殴られたり、ショックを与えられる時でした。その拷問が終わると、ズボンやシャツを着ることもできなくなりました。部屋に戻された時、体は膨れ上がり、背中は切り刻まれていて、仰向けになることも出来ない状態でした。皮膚はどこも青や緑に変色しているのでした。
 拷問は非常に刑務官の気分次第で行われました。拘置所で、だれか一人でも逆らったりする者がいれば、看守が電気棒を持ってきて、収容者全員を打ちすえるのでした。

 また、しばしば、天井から吊り下げられました。手首に鉄のワイヤーを結び、10分から15分間吊り下げ、電気を流すのです。非常な苦痛を伴う拷問でした。
 彼らは、チベット人を処刑したい場合、撲殺するよりも餓死させる方を選んだようです。拘置所では、それほどぎりぎりの食料しか与えられませんでした。

 私は、この間中、常に、最初に逮捕された時に頭に受けた傷の痛みにも苦しんでいました。頭はいまもひどく痛み、昨年はインドの病院に入院して治療を受けましたが、現在もよくなっていません。

Seitru  シトゥ拘置所

 グツァ拘置所に2ヶ月入れられた後、シトゥ拘置所に移されました。シトゥ拘置所は特に激しい拷問を加える所でした。そこでほとんど毎日殴られ、吊り下げられる拷問を受けました。拘置所内で最も残酷だったのは、除々に締る手錠を掛けられたことでした。看守たちは、私にその手錠をつけさせ、床の上に手を置かせ、手錠を踏み付けるのです。手錠が食い込んで、手が腫れ上がり常に非常な苦痛を感じました。その傷跡はいまでも両手に残っています。
 また、背中に回した腕をロープで強く縛り上げられたことも数回あります。体の自由を完全に奪われ、血が止まり、痺れて、激しいの痛みを伴うものでした。

 尋問は、30回ほど受けました。呼び出しはいつも突然で、深夜であっても、彼らが必要と思う時にいつでも呼びつけるのです。尋ねられるのは常に、「デモを計画し組織したのは誰か」ということについてでした。
 私たちとインドのチベット亡命政府との間につながりがあると考えているのです。というのも、ガンデン僧院の僧房が捜索され、私がインドで出版された本を何冊か持っていたのが見つかったからでした。しかし、実際には、私たちはインドの亡命政府とは全く何の関係もありませんでした。
 誰ひとり、外部からデモをするよう指導した者はいなかったし、援助もありませんでした。すべて自分たちで考え、決心したことだったのです。

Sentence and transfer to Drapchi  懲役刑、ダプチ刑務所への移送

 1989年 2月、非公開の裁判が開かれ、私は「反革命活動煽動者」として懲役3年の刑を言い渡されました。裁判といっても、弁護士はつかず、ガンデン僧院から逮捕された他の9人の僧侶全員と一緒に、ただ刑期を言い渡されただけです。私たちは、なぜデモを行ったか説明しようとしたのですが、警察官たちはこちらの主張にはまったく耳を貸そうとせず、私と他の4人のガンデン寺の僧侶が「3月のデモを組織化した」と決めつけられました。
 1989年3月、ダプチ刑務所に移送されました。

 私たちよりも以前にダプチ刑務所に収容されていた政治囚は1人だけでした。彼はタナ・ジグメ・サンポ(Tanak Jigme Sangpo)といい、チベットで最も長期の刑を言い渡された受刑者でした。彼は現在も収監されています。
 私たちは、盗みや傷害などを犯した刑法犯と一緒に大部屋に収監され、その大部屋で1年を過ごしました。刑法犯の受刑者は、ほとんどが終身刑か死刑を言い渡されていました。死刑囚の多くは私が収監されている間に死刑執行されました。
 1年後、ダプチ刑務所内には、「第5収容棟」と呼ばれる、政治囚専用の棟が作られました。あまりにも多くの政治犯が刑を受けたからでした。

Organisation and Extension  抵抗組織と刑の延長

 この時期、私や友人のチベット大学の学生、ロプサン・テンジン(Lobsang Tenzin) は、刑務所内で密かに「スノーランド青年自由会議(Snow Land for Youths Freedom Organisation)を創設しました。
 この組織の名の下に、仲間の囚人たちは、デモを行った理由や、ダプチ刑務所での政治犯の状況、受刑者の名前などを外に知らせようと、告発文の準備を始めたのです。当時、私は、刑務所内の温室で栽培する野菜のための肥料集めを担当させられており、その時にシャツの下に文書を隠し、外へ持ち出す手はずでした。私がさせられていた作業は、肥溜めに腰までつかり、頭から足の先まで糞尿をかぶりながら人糞を集めなければならない屈辱的なもので、髪の毛のなかまで匂いがしみつき、作業を終えて部屋に戻ろうが服を脱ごうが常に肥溜めの中にいるような気がするほどでした。しかし、そのために看守は私に直接触ってチェックすることはなく、容易に服の下に物を隠せたのです。実際、私は何度か、こうして文書を持ち出すことに成功しました。

 しかし、まもなく、ロプサンがベッドのマットレスの下に隠し持っていた告発文のコピーが、守衛に発見されてしまったのでした。
 チベットの独立を訴え、ダプチ刑務所の状況を告発する文書は、中国語とチベット語で書かれていて、中国語は大学生のロプサンが、チベット語のほとんどは私が書いたものでした。刑務所は、その筆跡を私のものだと断定しました。
 ほかにも、犯罪受刑者だった23歳のミクマール・タシ(Migmar Tashi)と、27歳のダワ(Dawa)が、「チベットの自由のためなら死んでもいい」という宣誓書を書き、私たちのグループに加わり、刑務所の中で秘密裏に政治活動をすることを手助けしてくれていました。この二人の宣誓書も、看守が発見した文書の中にあったのです。

 1989年5月17日、私の刑期は、3年から12年に延長され、終身刑だった友人のミクマール・タシとダワには即刻、死刑が言い渡され、刑務所内での公開処刑が行われました。この時ほど悲しみに泣いたことはありません。
 ロプサン・テンジンは17カ月の間、手枷、足枷をはめられ独房に入れられ、その後、ラサから500キロ以上離れた極寒の地、ポウォ・タモ刑務所に移されました。彼は終身刑を言い渡され、現在もそこで服役中なのです。常に拷問にかけられ、彼の健康はひどい状態にあると聞いています。

Dark room solitary confinement  無窓独房での拘禁

 ダプチ刑務所でロブサン・テンジンの部屋から文書が発見された翌日、私は手錠を掛けられ、頭に袋をかぶされてウディドゥ刑務所へ連れて行かれました。そこで、手枷、足枷をはめられ、34日間、無窓独房に入れられました。これは5年に及ぶ拘置生活の中で、最も精神的苦痛と恐怖に満ちたものでした。

 その独房は、一帖ほどの小部屋で、外に太陽がのぼりとても明るい時に、ようやく自分の手の先が見える程度の、真っ暗な部屋で、外の天気が悪い日には、今が昼なのか夜なのかさえ分かりませんでした。食事は1日に2度、小さなティンモ(大麦粉をふかした練りまんじゅう)と薄い野菜スープがあるだけ。窓がないため、食事は小さな穴から投げ込まれました。トイレもなく、座るのも小便をするのも同じ部屋の中でした。
 最後に独房から外に出されたとき、私の目はまったく見えなくなっていました。顔を洗っても、まだ目が開けられず、見えないままでした。これで自分はもう一生目が見えないのだと思い、怯え、絶望的な気持ちになりました。自分の目はどうしてしまったのだろう、と中国人看守に尋ねると、彼は「長期間暗いところにいたからだ、当たり前だ。1〜2時間もすれば見えるようになる」と答えました。
 後になって、自分よりも以前に、あの独房に閉じ込められた囚人が3人も自殺していることを聞きました。あの恐怖は忘れられません。

 その後、再び私はダプチ刑務所の政治犯専用の監獄に戻されました。そして再び強制労働を課されましたが、足枷はその後11カ月間つけられたままでした。そのため、労役をこなすことはとても困難でした。足枷は溶接されていて取り外しができず、常に引きずって歩かなければなりません。また、寒さが直接伝わり、非常に辛い思いをしました。つけられた当初はさびた鉄の輪だったものが、11カ月後にはこすれてぴかぴかの新品のようになっていました。
 ダプチに戻されてから懲役期間中、家族は月に1度面会を許されていました。2度目の懲役刑を言い渡されるのを待っていた11カ月間、だれとも面会が許されなかった時を除いて、家族は毎月訪れてくれ、新しい服とツァンパ(麦こがし:チベットの主食)を差し入れてくれました。自分は元気だ、刑務所での生活はまったく問題がない、と言いましたが、家族の悲しそうな顔を見るのはとてもつらいものでした。

In Hospital  入院

 絶え間なく拷問を受けるため、私はいつも健康に問題を抱えていました。そして、1992年には、健康状態はさらに悪化しました。
 常に頭痛がしていましたが、治療を受けることは許されませんでいた。結果、1993年8月には、歩くこともできなくなり、ついに刑務所の外の病院に送られたのです。腰から下は完全に麻痺して動かなくなっていました。
 この時、友人が私の写真をこっそりと撮影し、密かに国外に持ち出すことに成功しました。その写真がアムネスティ・インターナショナルによって全世界に公表され、釈放活動が始まったことは後で知りました。
 再び歩けるようになるまで10カ月かかり、1年以上、ラサ周辺の病院に入院していました。

 1993年12月、私は健康上の理由で仮釈放されました。逮捕されてから5年後のことでした。もし、私の刑期が判決通りに執行され、2000年3月まで収監されていたら、確実に獄中で死んでいただろうと思います。私の釈放のためにアムネスティ・インターナショナルや他の国際団体が働きかけてくれたことを知り、心から感謝しています。

 私の親友、ソナム・ワンドゥも、医学的理由で仮釈放されました。私とソナムは、約1年間入院していました。残念なことに、ソナムは拷問でひどく殴打されたために腎臓が悪化し、身体が麻痺して、手の施しようがありませんでした。44歳の若さで、ラサの自宅で亡くなりました。それでも、最期に自宅に戻ることができてよかったと思います。

After release  釈放後の苦難

 「元政治犯」の烙印が押された人間がチベットで生活するのは非常に難しいことです。元政治犯には(中国政府の)「配給手帳」が与えられません。就職することもほとんど不可能です。僧侶は、再び僧院に戻って修行することを政府から禁じられるのです。私の場合、刑期を終えずに仮釈放されたため、依然として囚人と見なされており、週に1度公安の尋問を受け、月に1度はダプチ刑務所の取調べを受けなければなりませんでした。

 当初、私はラサに移り住んだ家族と一緒に暮らし、タクシー運転手、チーズ売り、商売をしている友人の手伝いなど、なにか自分にできる仕事を見つけようと思いました。父親は私の保証人、つまり人質でした。刑期を終えていない私の保証人として書類にサインしたのですが、それには、「政治的な活動を一切しないこと」「刑務所内で見たり体験したことを一切漏らさないこと」「海外亡命しないこと」、そして、それに違反した場合、父親が代わりに刑務所に送られるという内容になっていたのです。
 家族は常に見張られていました。警察官はしばしば家にやってきて、私の部屋ばかりでなく家中を捜索するのです。家族だけでなく、友人、知人や親戚も監視されました。

 私がシトゥ拘置所にいた当時、2度、姉が拘置所に入れられたことがあります。私はその頃、面会を認められていませんでした。姉は私を心配するあまり、拘置所まで私を探しに来たのです。
 デモの後、100人以上の人たちが、中国の軍や警察にデモ中に殺されたり、拘置所や刑務所で死んでいきました。多くの場合、遺体には拷問の傷跡が残っているため、中国政府は拘置所や刑務所で死んだ囚人の遺体を家族に返すことはあまりありません。シトゥ拘置所にやってきた姉は、私がそこにいるのかどうかを知ろうとして、「タシがもし死んでいるのならそう教えて!」「死んだのなら、家族で弔いの祈りを捧げたいのだから!」と大声で叫びました。姉はその場で逮捕されました。そして、2週間拘置されました。けれど、私は後になって、彼女と同じ部屋にいたという人に会うまで、同じ拘置所のなかに姉がいたこと、そして既に釈放されたことを知りませんでした。
 もう一度、姉が刑務所に入れられたのは、私がインドに亡命した後です。公安は、彼女の家に来て、私がどこにいるかを尋問しました。そして1カ月以上の間、何も知らず何の罪もない姉を拘置しつづけたと聞きました。

 私は、仮釈放されてからも、たびたび公安に呼び出され暴行を受けました。
 1994年10月8日、治療のために仮釈放されたあとで、私はラサ警察署に2日間拘留され、尋問を受けました。公安は、釈放後も再び政治活動をしているのではないかと疑い、証拠を見つけ出そうとしました。
 1995年8月にも再び、6日間拘留されました。この時には、中国はひどい拷問にかけるだけではなく、本気で殺そうとしているのだと思い知らされました。後ろ手に手錠でつないだまま、護送車の上から私を突き落としたのです。その時は頭を強く打ち、命の危険を
感じました。
 さらに、1996年3月には、同じラサ警察署に3日間拘留され、同じように「現在何をしているのか」「政治活動をしているのだろう」と尋問を受けました。しかし、いつも公安はなんの証拠も見つけられず、結局私は釈放されました。

 1996年の夏、父が亡くなったとき、インドに亡命することを決心しました。父の書いてくれた保証書には「保証人が死亡した場合は代わりの人間を保証人にすること」とされていましたが、私は父の死を警察に届けず、亡命することにしました。
 亡命後、将来がどうなるのかはまったくわかりませんでした。しかし、これ以上ラサにいても、公安の監視はますますひどくなり、将来になんの望みもないことは明らかだったからです。

To India  「難民」として

ガンデン・タシ
▲カトマンズのチベット民主人権センター事務所で仕事中のタシさん(2000年10月、TakedaTomoakiさん撮影)

 酷寒のヒマラヤを越える長く過酷な1ヵ月の逃避行の後、 1997年 1月、私はインド北部のダラムサラ(Dharamsala)に辿り着きました。そこで1年間学校に通いました。
 今はチベット人のNGO「チベット民主人権センター(TCHRD)」で、ネパールのカトマンズ事務所の職員として働いています。チベットから逃れてきたばかりの難民にインタビューし、人権状況についてまとめ報告するのが仕事です。
 元政治囚と話す機会もたびたびあります。元政治囚と話すときには、体験や心情を分かち合うことで、彼らの気持ちがほぐれるのを感じます。時には、あまり監獄の経験に触れたがらない人たちもいます。そんなとき、私は政治活動や刑務所以外のことを話題にして、冗談を言って笑わせたりもします。

 中国領内の刑務所には、まだ現在600人以上のチベット人政治囚が捕われています。彼らは、ひどい強制労働や拷問に苦しみ続けているのです。友人の多くは、15年から20年の刑を受けて、まだ獄中にあり、何人かは既に獄中で死亡しました。1987 年から1999年までの12年間に、チベットの刑務所で拷問により 69人のチベット人政治囚が死亡したと報告されています。
 中国の刑務所の環境は劣悪で、囚人は、たとえ重い病気に罹っても、強制労働や課せられた作業を全うしなければなりません。そうした非人間的な扱いの結果、それが精神的外傷(トラウマ)やPTSD(心的外傷後ストレス傷害)となって、釈放された後にも強い精神的ダメージを引きずり、身体的にも精神的にも健康を害している人がほとんどです。そして、多くの人はその回復が困難で、後遺症を抱えながら生きているのです。

 1998年5月には、ダプチ刑務所内で、囚人たちが「チベットに自由を」と大声で叫ぶというデモがありました。看守は即座に制裁を加え、囚人2人がその場で射殺されました。ほかに囚人8人が、唱和に加わったという理由でひどい拷問を受け結果死亡しました。60人以上の囚人が、拷問で重傷を負い、政治囚8人が刑期を延長されました。

 今回、日本に招かれて各地で証言することで、ひとりでも多くの人たちに私の体験を聞いてもらい、チベットの現状を知ってもらいたいと願っています。私の話から少しでもチベットの状況を理解してほしい。これがまだ刑務所にいる仲間のチベット人のために、せ
めて私ができることの大事な一つだと思うからです。
 このような機会を与えてくださったことに深く感謝いたします。


■Message■
【タシさんからアムネスティ拷問廃止キャンペーンに寄せられたメッセージ】

 チベットでは、中国政府が「良心の囚人」を抑圧し、“異なる意見”を述べる者を逮捕、違法拘留したり、囚人については残酷な拷問を行っています。今日まで多くのチベット人が刑務所の内外で死亡しています。中国政府は1950年にチベットを併合して以来、チベット人の良心の囚人を抑圧の手段として使ってきました。政治囚の多くは僧、尼僧であり、彼らの多くは、ダライ・ラマ法王とチベットの独立を支持すると公に表明したため投獄されました。独立を求めるデモの最中に、何十名もの命が奪われました。また、刑務所の劣悪な状況に耐えられなかったり、自分たちの宗教的信条を非難するよう強制され、それに耐えられず自殺した人も数多くいます。

 中国政府はチベットの政治囚に弾圧的な政策をとっているため、アムネスティ・インターナショナルや他の多くの組織は、チベット人の人権状況を調査・把握し、世界に向けての中国政府の非難を継続的に行っています。世界人権宣言の人権の精神に反するとして、偏見に基づかないキャンペーンも実施してきました。アムネスティ・インターナショナルの活動により、世界中の囚人たちが基本的人権の侵害から保護され、またその命を救われています。

 私は、チベットの首都ラサで平和的なデモを行い、そのことにより1988年3月5日に逮捕され、中国当局によって12年間の拘置の判決を受け、ラサ東北部の郊外にあるダプチ刑務所に送られました。刑務所では、非人間的な拷問を受けていましたが、1994年、医師の処置を受けるために仮釈放されました。刑務所における私の状況を重視したアムネスティ・インターナショナルや他の組織による「関心」と「行動」のおかげです。もし、このときに医療的理由で仮釈放されなければ、おそらく、私は誰にも知られることなく、刑務所内で死んでいたでしょう。


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